『葉隠』を中心に水戸、会津などの「武士道」を研究されている嘉村先生。インターネット上で「武士道バーチャル博物館」の主宰やYOUTUBEでも発信をされています。そんな先生に事務所の特徴や「武士道」についてなどインタビューさせていただいた。
所属弁護士会:東京弁護士会
【著書】
「法律から読み解いた武士道と、憲法」
「弁護士の目」
「葉隠論考―武士道の諸相―」
「憲法学習のすすめ」
「民法学習のすすめ」
「損害賠償額算定解説事例集(編著)」など
農水省、防衛省、八潮市、日本文化大学、大東文化大学、明治大学大学院、法科大学院など、コンプライアンス、憲法・行政法などの法律学の講義
メディア掲載、講演実績多数
先生が弁護士になったきっかけは?
中学1年生の時に、江戸時代中期に佐賀県で生まれた『葉隠』という武士道書と出会ったことをきっかけに、歴史や古典に興味を持っていたので、元々は法曹の道ではなく、歴史や政治の根源を究める学者か研究者、もしくは歴史の先生になりたいと思っていました。
しかし、私自身が国粋主義になりすぎて、英語が大嫌いだったので、他の科目の成績は良かったのですが、高校2年生の2学期の中間テストで、英語の成績が底辺にまで落ちてしまいました。さすがに勉強しなければと反省し、国立大学を受けられるくらいまで成績が向上したので、国立大学の文学部に進学しようしたのですが、行きたいと思っていた大学の入試が学生運動で中止になってしまいました。
その際に父親から、「つぶしの利く法学部に行け」と勧められて、仕方なく法学部に進学しました。大学時代は、ストライキとロックアウトで授業らしい授業は二年間くらいしかありませんでしたが、そんな中で、有名な刑法学者である草野豹一郎先生のご子息で、高校時代の恩師である草野睿三先生から「司法試験を受けなさい」と勧められたことをきっかけに、法曹の道に進みました。
卒業の翌年に司法試験に合格し、司法修習生、裁判官として、足かけ9年の裁判所生活の後、本当にやりたい事を自由にやるために弁護士になりました。
アーバントリー法律事務所の特徴って?
よく何が専門ですかと聞かれるのですが、私は専門というのはおかしいと思っていて、まずは「デスクトップ」から入りましょうというのが、私の考えです。
「デスクトップ」というのは法律の基本的な枠組みのことで、「家事事件」「民事事件」「行政事件」といういくつかのブロックがあるということです。例えば、交通事故一つ考えてみても「刑法」の犯罪にもなりますし、「民法」の不法行為にもなるので、全部を理解していなければ、入口を間違えてしまい、正しく問題の解決に導くことはできません。
そこで当事務所は、専門に特化せず、相続・離婚など家族関係から交通事故・各種損害賠償、刑事事件、外国関係など法人と個人問わず、幅広く対応しているところが特徴です。
英語・中国語にも対応しており、台湾との関係も深いので、グローバルな視点で物事を見て、考えることができます。
昔ある裁判官に、「裁判官には勇気が必要だと言う人がいますが、そんなものは必要ない。なにが必要かと言うと、『責任感』が必要です。」と言われました。この考え方は、弁護士も同じです。なので、ご相談の際は、とにかく親切に、受任したからには最後まで責任を持って対応することを大切にしています。
「葉隠」を中心に水戸、会津などの「武士道」を研究し、インターネット上に「武士道バーチャル博物館」を主宰しています。また、YOUTUBEでも発信を行っているので、ご興味のある方はぜひリンクからとんでみてください。
⇒武士道バーチャル博物館(http://hagakurebushido.jp/)
⇒YOUTUBEチャンネル「アーバントリー事務局」(https://www.youtube.com/@user-ok2it1yp1u/featured)
「武士道」について
中学1年生の時に江戸時代中期に佐賀県で生まれた『葉隠』に興味を持ちました。『葉隠』は「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」という言葉で有名な書物です。その後、仕事の関係で、他にも武士道が謳われている水戸や会津に行くようになったのですが、同じ武士道でも、「水戸学」と「会津士魂」は『葉隠』とはかなり違いがあると感じ、水戸と会津の武士道を比べてみることが武士道理解の基本になると考えるようになりました。東大名誉教授の相良亨氏も「武士道は1つではない」と語っています。それは、「儒教由来の士道」と「仏教由来の武士道」です。
『葉隠』の中心人物である山本常朝は東大名誉教授の相良亨氏が言うとおり曹洞の禅者で、『葉隠』の時代の佐賀は、藩主鍋島綱茂が綱吉に儒学を講じたほどの朱子学の全盛です。この朱子学における武士道「士道」に対して仏教由来の「武士道」があり、『葉隠』は後者です。この両者の違いは大きく、新渡戸稲造の朱子学的な『武士道』では、「死に値せざるもののために死するは犬死」と紹介されていますが、『葉隠』では、「図に当らぬは犬死などといふ事は、上方風の打ち上りたる武道なるべし」と「犬死に」を認めているのです。
これを読んだことをきっかけに、「上方風の打ち上りたる武道」とはなにかという問題意識が生まれました。そして、水戸、会津、佐賀と各地に様々な武士道があることを知ったことで、武士道それぞれの倫理を知り、その中で「本当の日本の武士道」の倫理を理解しなければ、これからの日本の再生・復活に活かすことはできないと思いました。
実は「武士道」という言葉は昔からのものではありません。「武士道」という言葉の出る比較的早いものとしては、江戸時代初期の『甲陽軍艦』と言われています。また、中江藤樹の『翁問答』で「士道」。山鹿素行が『山鹿語類』で「侍道」という言葉を提唱しています。以上のことから「武士道」という言葉が生まれたのは1600年代中期頃だと考えられます。
「本当の日本の武士の生き方」を探るためには、ここ400年来の「武士道」と呼ばれるようになった武士の生き方だけでなく、「士道」やそれ以前の武人の生き方にも目を配らなければなりません。日本の武士の生き方を探す手順として、江戸中期の儒学者である伊藤梅宇の「見聞談叢」が有益です。彼は現岐阜県関ケ原町より西を「関西」、東を「関東」、箱根の坂より東を「坂東」と呼ぶと言っています。この3つのエリアの違いについては、台湾が参考になります。台湾にも「武士」はいたのですが、それは中国の王朝からは「首狩り族」とみなされた台湾の原住民族で、タイヤル族、ブタン族など十数の少数民族が存在しています。1600年代頃から台湾は西から中国化し、その中で、中国の文化に同化した原住民のことを「熟蕃」、固有の文化を保っている原住民のことを「生蕃」と呼び分けました。ここでの「熟」とは中国文明、特に儒教に「染まった」という意味で使われています。その観点から考えると、日本も古くは律令時代に中国の董仲舒ばりの儒教を取り入れ、「熟」していたのが、京都、奈良といった畿内であり、東に行けば行くほど「生」だったのです。例えば、碁盤の目の道がある京都や奈良は中国式なのに対し、鎌倉は日本的な街並みを形成しています。その律令時代の日本には中国と同じく、「文官」と「武官」があり、彼らのポリシーは「承詔必謹」です。それは聖徳太子が推古天皇に作ったと言われる十七条の憲法以来の「天皇の詔を承れば必ず謹んで実行する」ということで、律令時代は、天皇の「お言葉」が法律でした。王の言葉が「法」であるのは、世界最古級の「ハムラビ法典」からかもしれません。古代の王は行政大権、立法大権、そして、司法大権まで持つ絶対君主でしたが、さすがに1人では忙しくて限界だったので、「この問題が起きたらこう対処せよ」という家来への命令を作りました。その結果、王の言葉が国の法律になり、これを守ることが日本の律令時代の武士の倫理でもありました。律令制においては、天皇は天からその地位につけられ、縦、横、高さ、そして時間という四次元を支配し、国民に暦と租税・貨幣・土地制度などの確立のため、度量衡を授けていました。『日本書紀』では皇族出身の四人を「四道将軍」として日本各地に送り、「正朔を奉じ」諸国を平定したと記されています。「正」とはお正月、元旦のことで、「朔」とは毎月の1日。すなわち、天皇の暦を誘導させて、地方を「生」から「熟」に変えていったのです。こうして必然的に官位が定められ、身分制社会が形成されていきました。
そんな硬い律令時代から、規制が変わり始めたのが中世から平安後期以降です。この時代までは、中国との貿易は太宰府が一元管理していたのですが、平忠盛が1133年に規制を緩和させて民間貿易を始めました。これにより日宋貿易が盛んになり、忠盛の息子である清盛の時代に平氏は大いに勢力を増し、武士の世が到来しました。ただ、その頃の武士は武人であると同時に、その武力を背景としたビジネスを行っていました。なので、彼らは武士でもあり商人でもあったので、江戸時代のような士農工商ではありません。ましてや畿内から遠く離れた坂東では奈良や京都のように中国化していません。
朝廷から与えられる身分よりも、先祖から受け継がれた土地の方が重要視され、土地の管理を認めてくれる相手が主君であり、土地を保証してくれるからこそ命を賭けて戦うことができるわけです。「御恩と奉公」や「一所懸命」の世界ですね。こうして成立したのが、鎌倉武士独自の法律ともいえる『御成敗式目』です。これを作った北条泰時が重視したのは、坂東に昔から伝わっていた「右大将家御時以来」の慣習でした。それはお上から授かったものではなく、先祖代々、自分自身の身の丈に合わせて作ってきたものでした。そう考えれば、坂東におけるこの慣習法こそ「日本人自身」が作り上げたものであると言えると思います。そんな時代の武士のポリシーを一言で表すならば、「実であり慈悲である」と言えます。
戦国時代の武将鍋島直茂は1600年代初めのお正月に息子の勝茂と共に初詣に行きました。参拝のあと何を神様に祈ったのか勝茂に聞くと、「武運長久、子孫繁栄、国家安全」と答え、今度は勝茂が直茂に何を祈ったのか聞くと、「実の心おこり候様に御守り候へと、此の分祈るなり。別に何事も祈らず、即ち大明神の御照覧。」と答えます。より具体的な例として、戦国時代の武将朝倉孝景の書いた、「朝倉営林壁書」には、「朝倉の家に宿老を定むべからず」と家老の世襲を戒めた上で、「100万円もする名刀を一本持っていても、なまくらの槍100本には敵わない」すなわち、なまくらの槍を100人に持たせておけば、一方の敵は防げるなどと家訓を定めています。
江戸中期に書かれた『常用紀談』では、豊臣秀吉が徳川家康に「私は茶器や粟田口の名刀を持っているが、あなたは何を持っているのか?」という問いに対して、家康は「自分は500人の家来さえ万全であえばどこでも負ける事はありません。これを至極の宝物として大事にしています。」と答えています。
そんなわけで、墓や城についても「大きさ」より「実」です。例えば、鍋島直茂は、いざ敵が攻めてきたときに、真っ先に踏みにじられる所に殿様の墓所があれば、そんなことはさせまいと残された家来は防戦に励むだろうと見越して、自分の墓を小さなものにするように、ただし、領地の北の端に設けるよう遺言を残しました。ところが江戸時代に儒教武士道が台頭すると、親を大事にする「孝」の発想から巨大かつ豪華なものになりました。城も同じです。天守閣は戦国時代にはほとんどなく、江戸時代から造られるようになりました。この天守閣というものは、住民に権威を示す為のシンボルに過ぎず、城にとっては無用の長物あるいは害になりかねません。なぜなら、三角測量のかっこうの目印となり、敵の弾道計算を極めて容易にするものでしかないからです。なので、戦の仕方も「実」です。1569年に起きた立花城を巡る戦いでは、大友宗麟と毛利元就が激突しましたが、宗麟は家来に「落城し、降伏して構わない」と命令します。その落城で双方がお互いを助け、まごまごしているうちに毛利の本拠地を衝くという「落城も戦略の1つ」というあり方は、とても柔軟な思考を前提とするものです。勝利という最終目標、つまり「実」のために宗麟は一時の敗戦さえ戦略の中に組み入れることをいとわなかったのです。
武士道につきものの切腹についても、中世の切腹は「実」のあるものでした。『太平記』では敵兵に囲まれた護良親王を逃がす為、親王の家来である村上義光は自分が親王だと名乗った上で、自ら腹を掻っ捌き、腸を投げつけるという挙に出ました。それは、敵を引き付ける為の戦略的な切腹だったのです。『承久記』の伊賀光季の動きと自死も戦略的です。戦国時代を対象とする『葉隠』では敗北した武将が責任を取る為に切腹する例はありません。戦国時代に一々責任を取って切腹していたのでは次に控えている戦で戦えないのです。切腹するのは、死罪になるようなことをしても許してくれた、そんな「慈悲」をかけてくれた優しい主君が死んだ時、「情」に感じた家来が「追腹」として切腹します。そこには主君と家来の間の「情」という「実」があるわけです。そして、「追腹」をした家来は君主と一緒の墓に入る、これが中世的な「一味同心」であると山本常朝は表現しました。そのバックには、主君と家来とのホモセクシュアルな関係もみられました。『葉隠』の「忍ぶ恋」も同様で、本来の武士道は現代で言われているような「行儀」の良いものではなかったのです。しかし、江戸時代になると主君が死んだ時に追腹することや「一味同心」で主君と同じ墓に入ることも、身分制度に反するものとして禁止され、ホモセクシュアルな関係なんて益々許されないという発想になっていきました。
儒教主義が復活したのは国際関係が大きく影響しています。1644年に中国大陸では朱元璋によって始められた儒教国家の明が滅亡し、満州族の清朝が取って代わりました。この前後で多くの明人が日本に亡命しています。なので、孔子の故郷である山東省曲阜の儒教は一部満州文化に染まっているのですが、日本に逃れた儒学者により、佐賀県多久の儒教はオリジナルです。1700年の長崎の人口の内、約1万人が明人で、今でもそれらの明人の末裔が日本社会で活躍しています。その一人である朱舜水を歓迎したのが、水戸藩の水戸光圀すなわち水戸黄門でした。光圀は少年のころは素行不良だったそうですが、18歳の時に『史記』を読んだことで、悪い殿様にも徹底的に仕えるという『伯夷叔斉伝』に感銘を受けます。この発想を唐の韓愈が詩にしたのが『拘幽操』です。「天王は聖明なり」つまり「いくら暴君でも家臣は臣の道を守れ」という論理です。なので、光圀は臣が主君に忠誠を誓い、万世一系を貫いた日本こそ、本当の中国であると考えたのです。このように「勤王」を強調すれば対置されるのは「佐幕」です。当然、歴史書は個々人の伝記を並べた紀伝体となり、『史記』は「本記」「列伝」からなります。光圀が『日本版史記』として編んだのが『大日本史』です。すなわち、「勤王」である楠木正成と新田義貞は善で、「佐幕」である足利尊氏や北条義時は悪です。光圀の従兄弟である紀州藩主の徳川光貞も子の吉宗も明の法律が大好きで、吉宗が作ったのが『公事方御定書』です。ハムラビ法典や律令と同じく、「目には目を」つまり刑が1つしかない絶対的法廷主義で、将軍の絶対性を徹底した法律になっており、例えば「親子殺しは引き回しの上磔」などと事件のケースに応じて執行方法も1つしかないといったように律令時代の法律に戻ってしまったのです。そして、律令時代と同じく身分制が徹底され、光圀の『大日本史』は、無謬の主君・天皇を助けるために家来が犠牲となる血沸き肉躍る美しくアクティブな物語でした。こうして、徳川身分制社会の矛盾、理不尽から来るルサンチマンが「万世一系の皇室を尊ぶ」という勤皇論に結びつきました。
東京帝国大学の国権主義の教授である穂積八束は、「明治維新は水府の史論と国学によって成立した」と述べています。水戸学の由来は儒学・中国ですが、後者の国学も実は同様です。本居宣長ら、国学者に元々影響を与えたのは福建省の林公琰であり、息子の林道栄は中国担当の通訳兼商務官として活躍しています。清王朝に制服された後の中国では漢民族の中で、「本当の中国とは何か」を探る歴史研究が盛んになり、それが林公琰らによって日本にもたらされました。彼らの価値観によれば日本の君主は天皇であり、天皇の勅許を待たずに開国したのは違勅等々との主張から尊王攘夷運動が一挙に盛んになり、後年の明治維新へと展開されます。かくして水戸は幕府の大老であった井伊直弼を暗殺しますが、一方で光圀の年長の従兄弟である保科正之の会津の様に、「将軍を君」として、最後まで徳川家の為に玉砕した例もあります。いずれにせよ明治以降、維新で主導権を握れなかった人々は「右翼」になった人が多く、かえって大きな発想がありました。頭山満や宮崎滔天は「日本人は皆中国人になって支那を道義の国にせよ」などと大胆な事を述べています。これが大アジア主義です。鴨緑江や黒竜江など視点がアジア、大陸にまで及んでいました。ところが1889年、明治憲法ができてその倫理の本質「官吏服務規律」では、「凡そ官吏は天皇陛下及天皇陛下の政府に対し忠順勤勉を主として法律命令に従い各其職務をすべし」と天皇絶対の細いものになってしまいます。
この律令時代的な儒学価値観は、昭和維新にも、特に真面目な人にこそ大きな影響を与えました。昭和史において、三月事件、満州事変、十月事件が起きる1931年は重要な年になるのですが、これらの事件の中心人物の一人が橋本欣五郎でした。彼は東京で騒擾事件を起こし、軍隊を動員して政府を転覆させ、天皇がその臣下とされた総理大臣を直接自身で任命する「大命降下」により新政権を樹立するというプランを立てていたのですが、これは天皇の大権私儀であり、「天皇は聖名なり」ではありません。一方、維新を論理的に正確に真面目にとらえ、「天皇は聖名なり」に従って決起したのが、相沢事件、血盟団、五・一五、二・二六でした。井上日召や青年将校には橋本らのようなプランはなく、純粋に光圀以来の思想を受け継ぎ、「君の聖名」を曇らせている「君側の奸」を除けば、聖名により世はよくなると信じていました。ところが、彼ら皇道派は二・二六事件の後、「粛軍人事」で引っ込められたり、大陸の最前線に送られたりと多くの人が犠牲になりました。実はこの青年将校こそ純粋で温かい心の持ち主だったのです。橋本欣五郎らと彼らとの「論理」の違いがわからず彼らが軍国主義の典型のように否定され、顧みられないどころか「軍部」とひとくくりにされ、後のいわゆる「日中戦争」を展開した統制派と混同されて十分な検証がなされていないことが真に日本の問題であると考えています。
実は皇道派こそ「中国と戦争してはいけない」と当時の中国の指導者・蔣介石の国民政府、明という小さな中国、純粋中国を指向する彼との提携を考え、関内を攻めたり、首都南京を陥したりしてはならないと考えていたのです。しかし、二・二六後これをとなえる皇道派は潰え、日本で統制派が主導権を握る中で、盧溝橋、南京への攻撃がなされた結果、国民党は力を弱め、中国では共産党が政権を握り、「明」ではない「清」のコンセプトに乗る強力な国家・中華人民共和国ができあがってしまいました。こうして、中国戦線を拡大させた統制派には北京と南京との違いという真の文化人類学もなかったと思います。
以上のような明治維新による脱亜入欧、大陸進出が「間違いだった」との意見は、大隈重信、犬養毅などの政治家や、上原勇作、宇都宮太郎、武藤信義、真崎甚三郎などの軍人らに見られます。彼らは皆、大アジア主義者でした。そして、大隈に繋がる馬場恒吾、岩淵辰雄、そして吉田茂、松本重治とまともなアジア政策を進めるDNAが戦争の中で受け継がれてきました。改めて、彼らと反対の立場ではあるものの大川周明は「男女の恋物語でしかない平安文学より、武士の節義を写すことを主眼とする鎌倉文学を読むべきだ」と述べています。
中世武士の時代を今こそ再考すべきで、そのためには大アジア、大ユーラシア主義的な気宇壮大な発想が必要です。戦前の右翼の様に、大陸的な発想を持ち、国際社会に通用する人材を育てなくてはなりません。現在の日本の政治を見ても、自民、維新、立憲民主、いずれも儒教由来の価値観に基づいているところが強く、これからまずは離れなくてはなりません。
中世武士道のバックにあった大慈悲の仏教文化を遡れば、仏道の造形は古代のギリシャ、ローマからやってきたと言われています。伊勢神宮の式年遷宮も遊牧民族的な発想から来ているとも考えられます。日本の文明はアジアだけではなく、ユーラシア大陸と繋がっているのです。その中で「本当の」日本の武士道として世界に問うことができるのは、江戸以降のものではなく、水戸黄門からは「整序されていないもの」として排除されてしまった、草深くても志向が深い中世の坂東武者の鎌倉文化ではないでしょうか。これこそが日本独自のものであり、民主的で、世界と交流する時代の武士の生き方であり、弱者や生き物を労わる大慈悲の武士道像、すなわち「日本の武士道」だと自信を持って主張できるもののはずです。